LOGIN木曜日の午後一時五十分。
沙耶はパソコンの前に座って、Zoomのリンクを開いたまま、接続ボタンを押せずにいた。 部屋は片付いている。背景に余計なものが映らないよう、朝から何度か確認した。服は仕事用にと買ったまましまってあった白いブラウスに着替えた。髪も、いつもより少しだけ丁寧にまとめた。 全部、達哉には言っていない。 今日も達哉は普通に出勤した。「夕飯、早めにして」とだけ言い残して。沙耶は「わかった」と答えた。それだけの朝だった。 大丈夫。ただの打ち合わせだ。 沙耶は小さく息を吐いて、接続ボタンを押した。 画面が開いた。 最初に目に入ったのは、整然とした部屋だった。本棚、白い壁、窓から差し込む光。そしてその中心に、一人の男が座っていた。 三十五歳。写真で見た通りの顔だったけれど、印象は少し違った。写真より、穏やかだった。切れ者然とした雰囲気を想像していたけれど、画面の向こうの神崎蓮は、どこか静かな人に見えた。目が、落ち着いている。何かを値踏みするような視線ではなく、ただまっすぐ、画面を見ている。 「岸谷さん、はじめまして。神崎です」 声は低くて、穏やかだった。 「はじめまして、岸谷です。本日はよろしくお願いします」 沙耶は少し早口になった。自分でわかった。 神崎は微かに目を細めた。笑ったのかもしれない。口元はほとんど動かなかったけれど、目だけが少し柔らかくなった。 「緊張させてしまいましたか」 「……少し」 正直に言うつもりはなかったのに、口から出ていた。 「そうですか」と神崎は言った。謝りもせず、からかいもせず、ただそれだけ言って、次の言葉に移った。「では、早速ですが」 神崎の話は、簡潔だった。 KAN DESIGN LABが新しく立ち上げるサービスのブランディングを、一から作りたい。ターゲットは三十代の働く女性。サービスの内容はキャリア支援で、堅すぎず、でも軽くもない、そういうビジュアルイメージが欲しい。社内にデザイナーはいるが、外部の視点を入れたかった。 「なぜ私に声をかけてくださったんですか」 沙耶は話の途中で、そう聞いた。ずっと気になっていたことだった。 神崎は少し考えるような間を置いてから言った。 「岸谷さんのデザインは、依頼主の言葉を正確に形にしていると思いました。技術の話ではなく──聴く力の話です」 沙耶は、すぐに返事ができなかった。 聴く力。 デザインの技術を褒められたことはある。センスがいいと言われたことも、数えるほどだけどある。でも「聴く力」という言葉で評価されたのは、初めてだった。 「……ありがとうございます」 「お世辞じゃないです」 神崎はあっさりと言った。そのあっさりした言い方が、かえって本気に聞こえた。 三十分の予定が、気づけば四十五分になっていた。 途中から、沙耶の緊張はほとんど消えていた。神崎の話し方は、質問を挟む余白が自然にあって、沙耶が何か言うたびに「なるほど」とか「それは面白い視点ですね」という言葉が返ってきた。否定から入らない。でも全部を肯定するわけでもない。沙耶の言葉を、ちゃんと受け取ってから、次の言葉を選んでいる。 そういう会話を、いつぶりにしただろう。 誰かと話していて、こんなに息ができたのは。 その感覚に気づいたとき、沙耶は少し怖くなった。怖い、というより──怖いと感じた自分に、驚いた。会話が心地いいことを、怖いと感じる自分がいる。 それはたぶん、心地よさに慣れることへの警戒だった。慣れたら、失ったときに傷つく。今の沙耶には、余分な傷を負う余裕がなかった。 仕事の話だ。それだけだ。 沙耶は自分にそう言い聞かせて、画面に集中した。 「一点だけ、確認させてください」 打ち合わせの終わりに、神崎が言った。 「岸谷さんは今、他にどれくらい案件を抱えていますか」 「三件です。どれも小規模なので、時間的には問題ありません」 「そうですか」神崎は少し間を置いた。 「無理のない範囲でお願いしたいので、もし途中でペースを調整したくなったら、言ってください。納期は相談できます」 沙耶は、その言葉を一瞬、うまく受け取れなかった。 納期は相談できます。 当たり前のことのように神崎は言ったが、沙耶にとってそれは当たり前ではなかった。これまでのクライアントの多くは、納期の相談を持ちかけると「プロならできるはずでしょ」という空気になった。だから沙耶はいつも、無理をして間に合わせてきた。間に合わせることが、プロの証明だと思っていた。 「……ありがとうございます」 「では、来週中に簡単なコンセプト案をいただけますか。方向性の確認だけでいいです。完成度は問いません」 「わかりました」 「よろしくお願いします」 神崎は軽く頭を下げた。沙耶も頭を下げた。 画面が、暗くなった。 しばらく、沙耶はパソコンの前から動けなかった。 部屋に静けさが戻ってきて、さっきまでの四十五分が、少し遠い出来事のように感じられた。 聴く力。 その言葉が、まだ頭の中にあった。 達哉と話すとき、沙耶はいつも言葉を選ぶ。何を言えば機嫌を損ねないか、何を言えば穏やかに返ってくるか。会話が、ずっとそういう計算の上にある。いつからそうなったのか、もう思い出せないくらい、自然にそうなっていた。 でも今日の四十五分は、計算がなかった。 言いたいことを言って、相手の言葉を聞いて、また考えて、また言葉にした。それだけのことが、こんなに久しぶりだった。 私、ちゃんと話せた。 沙耶は小さく、息を吐いた。 窓の外は、穏やかな午後の光だった。来週中にコンセプト案を出す。それだけを考えよう。それだけでいい。 スマートフォンを見ると、達哉からのラインが来ていた。 「今日の夕飯、早めにって言ったよね」 時計を見ると、午後二時四十分だった。 沙耶は立ち上がって、キッチンへ向かった。 さっきまでの温かさが、すうっと遠ざかっていく気がした。でも──完全には消えなかった。胸の奥のどこか小さなところに、今日の四十五分が、ちゃんと残っていた。 消えない。 それだけで、今日は十分だと思った。金曜日の朝、達哉を送り出してからすぐ、沙耶はパソコンを開いた。 コンセプト案。来週中という締め切りまで、まだ余裕はある。でも、頭の中にあるものを早く形にしたかった。昨日の打ち合わせで神崎から聞いた言葉が、まだ鮮明なうちに。 ターゲットは三十代の働く女性。キャリア支援のサービス。堅すぎず、でも軽くもない。 沙耶はまず、言葉を書き出すことから始めた。デザインより先に、言葉。これは沙耶がずっとやってきたやり方だった。依頼主が伝えたいことを言語化してから、視覚に落とし込む。遠回りに見えて、これが一番ブレない。 三十代の働く女性。 沙耶は手を止めた。 それは──自分のことでもある。 二十八歳だから厳密には違うけれど、あと二年もすれば三十代だ。フリーランスとして働いて、家庭を持って、でも何かがずっとうまくいかない気がしている女性。そういう人たちに届くものを作りたい、と神崎は言っていた。 届くもの。 沙耶は再びキーボードに向かった。言葉が、少しずつ出てきた。 午前中いっぱい、沙耶は画面と向き合った。 コンセプトのキーワードを並べて、整理して、また並べ直す。色のトーンを考える。フォントのイメージを探す。参考になりそうな事例を集めて、でも似すぎないように距離を取る。 気づいたら、昼を過ぎていた。 お腹が空いていることにも気づいていなかった。コーヒーも、朝に入れたまま飲み忘れていた。冷めきったカップを持ち上げて、一口飲んで、沙耶は小さく笑った。 こんなに夢中になっ
木曜日の午後一時五十分。 沙耶はパソコンの前に座って、Zoomのリンクを開いたまま、接続ボタンを押せずにいた。 部屋は片付いている。背景に余計なものが映らないよう、朝から何度か確認した。服は仕事用にと買ったまましまってあった白いブラウスに着替えた。髪も、いつもより少しだけ丁寧にまとめた。 全部、達哉には言っていない。 今日も達哉は普通に出勤した。「夕飯、早めにして」とだけ言い残して。沙耶は「わかった」と答えた。それだけの朝だった。 大丈夫。ただの打ち合わせだ。 沙耶は小さく息を吐いて、接続ボタンを押した。 画面が開いた。 最初に目に入ったのは、整然とした部屋だった。本棚、白い壁、窓から差し込む光。そしてその中心に、一人の男が座っていた。 三十五歳。写真で見た通りの顔だったけれど、印象は少し違った。写真より、穏やかだった。切れ者然とした雰囲気を想像していたけれど、画面の向こうの神崎蓮は、どこか静かな人に見えた。目が、落ち着いている。何かを値踏みするような視線ではなく、ただまっすぐ、画面を見ている。 「岸谷さん、はじめまして。神崎です」 声は低くて、穏やかだった。 「はじめまして、岸谷です。本日はよろしくお願いします」 沙耶は少し早口になった。自分でわかった。 神崎は微かに目を細めた。笑ったのかもしれない。口元はほとんど動かなかったけれど、目だけが少し柔らかくなった。 「緊張させてしまいましたか」 「……少し」 正直に言うつもりはなかったのに、口から出ていた。
翌朝、起き抜けにスマートフォンを確認するのが、沙耶の習慣になってから久しい。 達哉からのラインに「明日の夕飯どうする」とか「洗濯物たたんでおいて」とか、そういったメッセージが来ていることが多い。出勤してからでも言えることを、わざわざラインで送ってくる。直接言葉にすることを、この人はどこかで避けているのかもしれない、と沙耶は思ったことがある。あるいは記録として残したいのか。どちらにしても、朝一番に画面を開くたびに、沙耶の肩は少しだけ重くなった。 でも今朝は違った。 達哉からのラインより先に、別の通知が目に入った。 SNSのDM。神崎蓮からの返信だ。岸谷さんご返信ありがとうございます。早速ですが、今週木曜日の午後二時はいかがでしょうか。オンラインにて、三十分ほどお時間をいただければと思います。ZoomのURLは改めてお送りします。神崎蓮 沙耶はベッドの中で、その短いメッセージを二度読んだ。 木曜日。今日が月曜日だから、三日後だ。 断る理由は何もなかった。達哉は木曜も通常通り出勤する。打ち合わせの時間は午後二時で、夕飯の準備にも余裕がある。何も問題はない。 なのに沙耶は、承諾の返信を送る前に少しの間、画面を見つめていた。 本当にいいのかな。 自分でも可笑しいと思った。仕事の打ち合わせをするのに、何をためらっているのか。フリーランスとしてクライアントと話すのは、何も特別なことじゃない。 でも──何かが、違う気がした。 これまでの仕事は、全部小さな世界の中に収まっていた。達哉の「続かないでしょ」という言葉の範囲の中に、ちゃんと収まっていた。でもKAN DESIGN LABは、その範囲の外にある気がした。踏み出したら、もとの場所に戻れなくなるような、そんな予感が、指先にあった。 戻れなくなって、何が困るんだろう。 沙耶は自分にそう問いかけて、答えが出ないうちに返信を送った。神崎様木曜日の午後二時、問題ありません。よろしくお願いいたします。岸谷沙耶 送信ボタンを押してから、ようやく起き上がった。 キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける。今日の朝食を組み立てる。いつも通りの朝が、いつも通りに始まった。 でも何かが、今日は少しだけ違った。うまく言葉にはできないけれど──足元に、薄い光のようなものがある気がした。踏めば消えてしまいそう
午後二時。 沙耶はパソコンの画面を見つめたまま、冷めたコーヒーに口をつけた。 カフェの女性オーナーへのロゴ案は、昨日の続きからさらに手を加えて、三パターンまで絞り込んだ。Aは洗練されているけれど少し冷たい印象がある。Cは温かみがあるが、少し素朴すぎるかもしれない。そしてB──シンプルで、でも芯がある。余白の使い方が、依頼主の言葉と重なる気がした。 「自分のお店なのに、なかなか形にできなくて」 最初の打ち合わせで、彼女はそう言っていた。恥ずかしそうに、でも真剣な目で。形にできない何かを、ずっと抱えていた人の顔だった。 沙耶の指は自然とBパターンに動いた。 これがいい。理屈じゃなく、そう思った。デザインをしているとき、たまにこういう瞬間が来る。考えるより先に、手が答えを知っている瞬間。沙耶はこの感覚が好きだった。というより──この感覚だけが、今の自分に残っている「好き」だと、最近そんなふうに思うことがある。 好きなものが、まだちゃんとある。 それだけで、今日という日が少し違う色になる気がした。 スマートフォンが振動した。 画面を見ると、知らないアドレスからのメッセージだった。SNSのDM。沙耶がポートフォリオ用に作ったアカウントへの通知だ。最近は月に一件か二件、小さな依頼が来ることもある。たいていは個人経営の飲食店か、ハンドメイド作家からだ。単価は高くない。でも、自分の名前で仕事をしているという感覚が、沙耶には必要だった。 画面を開く。岸谷沙耶さん、はじめまして。KAN DESIGN LABという会社を経営している、神崎蓮と申します。先日、岸谷さんのポートフォリオを拝見しました。ブランディングの軸がブレていない点、非常に興味深く拝見しました。もしよろしければ、一度お話を聞かせていただけますか。詳細はお電話もしくはオンラインでご説明できればと思います。ご検討のほど、よろしくお願いいたします。神崎蓮 沙耶は三回、読み直した。 文面は丁寧で、過不足がない。売り込みでも値踏みでもなく、ただ率直に、話を聞かせてほしいと書いてある。こういうメッセージは珍しかった。たいていは最初から「安くできますか」か「○○風のデザインで」という条件から入ってくる。あるいは、実績を列挙して「このレベルの仕事ができますか
目が覚めた瞬間、まず確認するのは時計ではなく、隣の気配だ。 六時十二分。 達哉はまだ眠っている。寝返りを打った拍子に、掛け布団が半分、床に落ちていた。沙耶は音を立てないようにベッドを抜け出し、布団を拾って、そっとかけ直した。 それから足音を殺してキッチンへ向かう。 冷蔵庫を開ける。卵、豆腐、昨日の残りの小松菜。頭の中で今朝の献立を組み立てながら、沙耶は自動的に手を動かし始める。米を研いで、味噌汁の出汁をとって、卵焼き用のフライパンを火にかける。 窓の外はまだ薄暗い。四月の朝は、明けるのが中途半端に遅い。 卵を三つ割って、菜箸で溶く。砂糖をひとつまみ。いや、少し多かったかもしれない。沙耶は一瞬手を止めて、砂糖の瓶を見た。 ──また甘すぎって言われるかな。 そう思った瞬間、自分でも可笑しくなった。卵焼きを焼く前から、怒られる想像をしている。それがもう、朝の習慣になっていた。 七時ちょうどに、達哉が起きてきた。 「おはよう」と沙耶は言った。 達哉は返事をしなかった。椅子を引いてテーブルに座り、スマートフォンを開く。ニュースか、それともSNSか。沙耶には関係なかった。関係ないように、自分に言い聞かせてきた。 味噌汁をよそって、卵焼きを皿に盛って、ご飯を茶碗によそう。二人分。沙耶の分は、達哉が食べ終わってから。それがいつの間にか決まったルールになっていた。 達哉は箸を取り、卵焼きをひと切れ口に入れた。 二秒の沈黙。 「甘すぎ」 それだけ言って、またスマートフォンに目を戻す。 「ごめんなさい」 沙耶は言った。反射的に。考える前に、口が動いていた。 私はいつから、謝ることが呼吸になったんだろう。 洗い物をしながら、沙耶はぼんやりとそんなことを思った。 謝るのは怖いからじゃない。もうそういう段階は、とっくに過ぎていた。謝るのは、空気を保つためだ。この家の空気を、ぎりぎり呼吸できる濃度に保つための、沙耶なりの技術だった。 達哉は別に、怒鳴らない。手を上げたこともない。傍から見れば、普通の夫婦だと思う。それが──たぶん、一番ややこしいところだと、沙耶はうっすら気づいていた。 「今日、何時に帰る?」 達哉が背後から聞いた。 「クライアントとオンラインの打ち合わせが夕方にあるから、六時か七時くらいには──」 「ふ







