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第4話  画面の向こう

last update publish date: 2026-08-28 19:00:53

 木曜日の午後一時五十分。

 沙耶はパソコンの前に座って、Zoomのリンクを開いたまま、接続ボタンを押せずにいた。

 部屋は片付いている。背景に余計なものが映らないよう、朝から何度か確認した。服は仕事用にと買ったまましまってあった白いブラウスに着替えた。髪も、いつもより少しだけ丁寧にまとめた。

 全部、達哉には言っていない。

 今日も達哉は普通に出勤した。「夕飯、早めにして」とだけ言い残して。沙耶は「わかった」と答えた。それだけの朝だった。

 大丈夫。ただの打ち合わせだ。

 沙耶は小さく息を吐いて、接続ボタンを押した。

 画面が開いた。

 最初に目に入ったのは、整然とした部屋だった。本棚、白い壁、窓から差し込む光。そしてその中心に、一人の男が座っていた。

 三十五歳。写真で見た通りの顔だったけれど、印象は少し違った。写真より、穏やかだった。切れ者然とした雰囲気を想像していたけれど、画面の向こうの神崎蓮は、どこか静かな人に見えた。目が、落ち着いている。何かを値踏みするような視線ではなく、ただまっすぐ、画面を見ている。

 「岸谷さん、はじめまして。神崎です」

 声は低くて、穏やかだった。

 「はじめまして、岸谷です。本日はよろしくお願いします」

 沙耶は少し早口になった。自分でわかった。

 神崎は微かに目を細めた。笑ったのかもしれない。口元はほとんど動かなかったけれど、目だけが少し柔らかくなった。

 「緊張させてしまいましたか」

 「……少し」

 正直に言うつもりはなかったのに、口から出ていた。

 「そうですか」と神崎は言った。謝りもせず、からかいもせず、ただそれだけ言って、次の言葉に移った。「では、早速ですが」

 神崎の話は、簡潔だった。

 KAN DESIGN LABが新しく立ち上げるサービスのブランディングを、一から作りたい。ターゲットは三十代の働く女性。サービスの内容はキャリア支援で、堅すぎず、でも軽くもない、そういうビジュアルイメージが欲しい。社内にデザイナーはいるが、外部の視点を入れたかった。

 「なぜ私に声をかけてくださったんですか」

 沙耶は話の途中で、そう聞いた。ずっと気になっていたことだった。

 神崎は少し考えるような間を置いてから言った。

 「岸谷さんのデザインは、依頼主の言葉を正確に形にしていると思いました。技術の話ではなく──聴く力の話です」

 沙耶は、すぐに返事ができなかった。

 聴く力。

 デザインの技術を褒められたことはある。センスがいいと言われたことも、数えるほどだけどある。でも「聴く力」という言葉で評価されたのは、初めてだった。

 「……ありがとうございます」

 「お世辞じゃないです」

 神崎はあっさりと言った。そのあっさりした言い方が、かえって本気に聞こえた。

 三十分の予定が、気づけば四十五分になっていた。

 途中から、沙耶の緊張はほとんど消えていた。神崎の話し方は、質問を挟む余白が自然にあって、沙耶が何か言うたびに「なるほど」とか「それは面白い視点ですね」という言葉が返ってきた。否定から入らない。でも全部を肯定するわけでもない。沙耶の言葉を、ちゃんと受け取ってから、次の言葉を選んでいる。

 そういう会話を、いつぶりにしただろう。

 誰かと話していて、こんなに息ができたのは。

 その感覚に気づいたとき、沙耶は少し怖くなった。怖い、というより──怖いと感じた自分に、驚いた。会話が心地いいことを、怖いと感じる自分がいる。

 それはたぶん、心地よさに慣れることへの警戒だった。慣れたら、失ったときに傷つく。今の沙耶には、余分な傷を負う余裕がなかった。

 仕事の話だ。それだけだ。

 沙耶は自分にそう言い聞かせて、画面に集中した。

 「一点だけ、確認させてください」

 打ち合わせの終わりに、神崎が言った。

 「岸谷さんは今、他にどれくらい案件を抱えていますか」

 「三件です。どれも小規模なので、時間的には問題ありません」

 「そうですか」神崎は少し間を置いた。

「無理のない範囲でお願いしたいので、もし途中でペースを調整したくなったら、言ってください。納期は相談できます」

 沙耶は、その言葉を一瞬、うまく受け取れなかった。

 納期は相談できます。

 当たり前のことのように神崎は言ったが、沙耶にとってそれは当たり前ではなかった。これまでのクライアントの多くは、納期の相談を持ちかけると「プロならできるはずでしょ」という空気になった。だから沙耶はいつも、無理をして間に合わせてきた。間に合わせることが、プロの証明だと思っていた。

 「……ありがとうございます」

 「では、来週中に簡単なコンセプト案をいただけますか。方向性の確認だけでいいです。完成度は問いません」

 「わかりました」

 「よろしくお願いします」

 神崎は軽く頭を下げた。沙耶も頭を下げた。

 画面が、暗くなった。

 しばらく、沙耶はパソコンの前から動けなかった。

 部屋に静けさが戻ってきて、さっきまでの四十五分が、少し遠い出来事のように感じられた。

 聴く力。

 その言葉が、まだ頭の中にあった。

 達哉と話すとき、沙耶はいつも言葉を選ぶ。何を言えば機嫌を損ねないか、何を言えば穏やかに返ってくるか。会話が、ずっとそういう計算の上にある。いつからそうなったのか、もう思い出せないくらい、自然にそうなっていた。

 でも今日の四十五分は、計算がなかった。

 言いたいことを言って、相手の言葉を聞いて、また考えて、また言葉にした。それだけのことが、こんなに久しぶりだった。

 私、ちゃんと話せた。

 沙耶は小さく、息を吐いた。

 窓の外は、穏やかな午後の光だった。来週中にコンセプト案を出す。それだけを考えよう。それだけでいい。

 スマートフォンを見ると、達哉からのラインが来ていた。

「今日の夕飯、早めにって言ったよね」

 時計を見ると、午後二時四十分だった。

 沙耶は立ち上がって、キッチンへ向かった。

 さっきまでの温かさが、すうっと遠ざかっていく気がした。でも──完全には消えなかった。胸の奥のどこか小さなところに、今日の四十五分が、ちゃんと残っていた。

 消えない。

 それだけで、今日は十分だと思った。

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